葉 隠 』  聞 書 第 一

 

 

 

〇「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」

 

 

 

 武士道というは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬはうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。図に当たらぬは犬死などといふ事は、上方風の打ち上がりたる武道なるべし。二つ二つの場にて、図に当たることのわかることは、及ばざることなり。我人(われひと)、生きる方がすきなり。多分すきの方に理は付くべし。若し図にはづれて生きたらば、腰抜けなり。この境危ふきなり。図にはづれて死にたらば、犬死気違なり。恥にはならず。これが武道に丈夫なり。毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生(いっしょう)越度(をちど)どなく、家職を仕果(しおほ)すべきなり。

 

 

 

◆(訳)武士道の本質は、死ぬことだと知った。つまり生死の二つのうち、何れを取るかといえば、早く死ぬ方をえらぶということにすぎない。これといってめんどうなことはないのだ。腹を据えて、よけいなことは考えず、邁進するだけである。〝事を貫徹しないうちに死ねば犬死だ〟などというのは、せいぜい上方ふうの思い上がった打算的武士道といえる。

 

 

 とにかく、二者択一を迫られたとき、ぜったいに正しい方をえらぶということは、たいへんむずかしい。人はだれでも、死ぬよりは生きる方がよいに決まっている。となれば、多かれ少なかれ、生きる方に理屈が多くつくことになるのは当然のことだ。生きる方を選んだとして、それがもし失敗に終わってなお生きているとすれば、腰抜けとそしられるだけだろう。このへんがむずかしいところだ。

 

 

ところが、死をえらんでさえいれば、事を仕損じて死んだとしても、それは犬死、気ちがいだとそしられようと、恥にはならない。これが、つまり武士道の本質なのだ。とにかく、武士道を極めるためには、朝夕くりかえし死を覚悟することが必要なのだ。つねに死を覚悟しているときは、武士道が自分のものとなり、一生誤りなくご奉公し尽くすことができようというものだ。

 

 

 

◆(別文)――-必死の観念、一日仕切りなるべし、毎朝心身をしづめ、弓、鉄砲,槍、太刀先にて、すたすた(づたづた)になり、大波に打取られ、大火の中に入り、雷電にうちひしがれ、大地震にてゆりこまれ、数千丈のほき(崖)に飛込み、病死、頓死など死期の心を観念し、朝毎に懈怠なく、死しておくべし。古老曰く「軒を出づれば死人の中、門を出づれば敵を見る」となり、用心の事にはあらず、前方に死を覚悟し置く事なりと。(聞書第十一)

 

 

 

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西郷隆盛を支えた百一の言葉『言志録』第百三十八から(訳 濱田浩一郎)

 

(江戸時代の儒学者、佐藤一斎著「言志四録」・言志録、言志後録、言志晩録、言志(てつ)文政7年(1824)~寛永6年(1853)刊行。佐藤一斎4082才にかけての作品)

 

 

 

死を恐れるのは人の本質ではない

 

死を恐れる感情は、生まれた後に生れる。つまり身体があってはじめて、死を恐れる感情がある。死を恐れないのが、生まれる前の本性だから、生きていくなかで、本性に返るべきなのである。

 

 

 

死を畏るるは、生後の情なり、()(かく)有りて而る後に是の情有り。死を畏れざるは、生前の性なり。(中略)人須らく死を畏れざるの理を、死を畏るる中に自得すべし。性に復るに庶からん。『言志録』第138条原文

 

〇着想と判断力を生み出す工夫

 

 

 

生まれつきによりて、即座に知恵の出る人もあり、退(しりぞ)いて枕をわりて案じだす人もあり。その本を極めて見るに、生まれつきの高下(こうげ)はあれども・四誓願に押し当て、私なく案ずる時、不思議の知恵も出づるなり。

 

 

 

皆人、物を深く案ずれば、遠き事も案じだすやうに思えども、私 を根にして案じ廻らし、皆邪智の働きにて、悪事となる事のみなり。

 

 愚人の習ひ、 なくなること成りがたし。さりながら、事に臨んでまずその事を差し置き、胸に四誓願を押し立て、 を除き工夫致さば、大はづれあるべからず。

 

 

 

 

 

◆(訳)生まれつきのせいで、即座に知恵の出せる人もあれば、あとで枕を叩き割るほどに、考えあぐねた末、思案を示す人もいる。とにかく、その人その人、生まれつきの差違はあるものの、四つの誓願に基づき、〝私〟(私心・主観)を捨てて考える時、今まで思いもよらなかったような知恵すらでてくるものである。

 

 

 

 だれでも、ものごとをじっくりとよく考えさえすれば、どんな難解なことでも考え出せるように思うかもしれないが、〝私〟 を基本にして判断したのでは、いくら考えてもすべてが邪智の働きとなってしまい、役立たずになるばかりである。

 

 

 

とはいうものの、おろかな人間どもは、〝私〟をなくすことはむずかしい。だから、事にのぞんだら、その事を別にして、まず原則に

 

従い、〝私〟を除いて、いろいろ考えれば、大きく外れることはなくなるだろう。

 

      註:四つの誓願

 

一、武士道に於いておくれ取り申すまじき候。

 

一、主君の御用に立つべき事。

 

一、親に孝行仕るべき事。

 

一、大慈悲を起し人の為になるべき事。)

 

 

 

 

 

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西郷隆盛を支えた百一の言葉『言志録』第百二十二から(訳文)

 

 

 

真の自己を自覚せよ

 

 

 

人の心、「自己」には二つの面がある。 

 

ひとつには天から授かり、善悪を正しく区別できる「真己」。 

 

もう一つは、地上で手に入れた、私欲に()かれる「仮己」。

 

真の自己が仮の自己に引きずられてはならない。

 

 

 

本然の真己有り。

 

躯殻の仮己有り須らく自ら認め得んことを要すべし。『言志録』第122

 

 

 

〇私心がある者とは、苦難を共にできない、西郷南洲遺訓

「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るもの也。

この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」