『数息観のすすめ』から2.座禅の仕方からのつづきで「数息観の仕方」を述べています。

 

3.数息観の仕方について 

 

 まず息を数えはじめる前の心構えですが、小さな蒲団の上に五尺余りの形骸がチョコナンと坐っているのだと思わないで、天地乾坤をつっくるめて一枚の蒲団として、これを尻の下に敷き、その上に宇宙の主人公がドッカと坐るのだという気概があってほしいものです。

 

そしておもむろに数息にとりかかるのですが、まず合掌してから自然の呼吸を心の中で数え始めるのです。引く息と出る息とをもって一つと数え、次の引く息と出る息とをもって二つと数えます。

 

人によって、いろいろの数え方があるようですが、私共は次のように規定しています。

 

経験上それが一番効果的のようですが、すでに習慣づけられている人は、あえてこの規定に従わねばならないということもありますまい。ただ修練の程度に応じて、1 0 0 まで数える場合と、1 0 まで数える場合と、数えない場合とに区別して前期・中期・後期と区別しております。

 

これは誰から指図されるものでもありませんが、自己の修熟を自分ではかって是非実行してお貰い申したいのであります。でないと、数息観の真の妙味を味わうまでに到らないで、止めてしまう場合が多いのです。

 

後期に達しないと真の妙味は出てきません。前に挙げたような効果なら、前期・中期でもないことはないのですが。“ なるほどこれは安楽の法門であるわい” と合点がいくまでには、数息観にして、しかも息を数えないというところまで円熟しなければなりません。その詳しいことは後で申します。

 

まず前期から説明致しましょう。最初の入息をイーと、そして最初の出息をそのまま受けてチーと数えます。つまり一呼吸でイーチーです。次の呼吸が二ーイーであり、その次がサーンーであります。かくて 11 番目はジューと吸い、イーチと吐き、20 はニイーと吸いジューと吐き、21 は二ジューと吸い、イーチと吐きます。100 はヒャーと吸いクーと吐き、そのまま再びイーチーと1 にかえるのです。

 

これだけのことなら、数のかぞえられる者なら誰でもわけなくできる筈ですが、ここに二つの条件があります。この条件を無視したのでは、ただ息を数えることだけであって、数息観になりません。ところが、この条件にかなうことは甚だむずかしいことで、大いに錬磨修熟を要する次第です。さればこそ前・中・後期と分かれる所以であります。さてその条件と申すのは 次の三つです。

 

A. 勘定を間違えないこと 

B. 雑念を交えないこと 

C. 以上二条件に反したら1 に戻すこと

  

この三つは、何でもない条件のようですが、さていよいよ実施してみると、容易でないことに気づきます。

 

. の勘定を間違えないことは、数をとばしたり後戻りをしたりしないことです。

. の雑念を交えぬとは、数をかぞえること以外のことを考えぬことです。

 

勿論、無感覚になっているのではないのですから、外界からの刺激を受けて、見えもし聞えもしましょう。いわゆる見れども見えず、聞けども聞えずというのは、単に見えぬ聞えぬということではなしに、見たら見たまま、聞いたら聞いたままにして、自己の考えを乱されないことです。むずかしく言えば二念を継がないことです。

 

例えば目の前を一匹の蚊がブーンと過ぎたとします。そしたら、蚊がブーンと過ぎただけにしておけばよいので、今のは縞蚊だから刺されたらさぞ痒いだろうの、アノフェレスではないからマラリア病にかかる心配はないとの連想をはたらかせずに、すなわち、二念を継がず、そのまま数息観をつづけていけばよいのです。

 

二念をつぐと三念四念と連想が起り、記憶を呼び起こす想像をたくましうして、ついには数息観をしていることすら忘れはてて、あらぬ事に思いを廻らしていることがよくあるものなのです。

実際やってみると、この第二の条件の雑念を交えないということが、一番むずかしいのです。

 

Cの条件は、勘定を間違えたり、雑念が交じったりしたら、正直に1 に戻して初めから勘定のし直しをします。たとい8 09 0まで数えてきて惜しいところであっても、AとBとの条件に反したら、いさぎよく1 に戻す。この原則を良心的に守るとしたら、恐らく前期の人の数息観の完全にできる人は一人もありますまい。何とならば、これが完全にできる自信がついたら、中期に進んでよい人なのですから。

 

前期の間は、そう厳格にこの三条件を振り回したら、自己嫌悪におちいって、数息観をするのが嫌になってしまいますから、或る程度のミスは黙殺することにします。黙殺といっても余りひどいのはいけませんが、7 9の次にうっかり5 0と数えてしまったのや、足が痛くなったから、こんど1 0 0 まで数えたら止めようと思う位は、まァ黙認しておこうというものです。

 

 

もっとも黙認にも階梯があることで、最初の1 0 0 までは余りやかましく言わず、次の1 0 0 はやや条件を厳しくし、さらに次の1 0 0 を数えている時はなるべく条件を厳守して、数え直しをやるようにするとよいです。それでもある程度の黙認をやらないと、なかなか1 0 03回、つまり3 0 0まで数えることはできないものです。

 

ですから線香が一本燃え終わったら、数にかかわらず、その日はそれで止めることにでもしないと疲れ過ぎます。最初のうちは余り無理せん方が長つづきします。どうせ完全に数息観ができるなんて、半年や一年の修練では望めないことなのですから、あまり気をおとさずに、細くとも長くつづけることが肝心です。

 

それは私がまだ旧制高等学校の学生であった頃、東北帝国大学総長のH さんの奥さんから( この方は後に瑞巌窟老師の法を嗣いで現に8 8才( 1 9 5 4) で毎日二炷香坐っておられます。) 「 立田さん。毎日一炷香だけお坐りなさいね。もし一日でも欠かしたら、それで法が絶えるのだと思って、細くとも長くつづけて下さいね。もし何かの都合で一炷香坐れなかったら、半分に折ってでも4分の1に折ってでも一炷香は一炷香になりますからお続けなさいね 」 と言われた。私はそれを正直に実行して来たのです。もし私が心から「今日あることを得たり」 ということを許されるなら、全くこの奥さんのお蔭であると、今に感謝している次第であります。

 

この体験から私は皆さんに、細くとも長く毎日かかさず坐りつづけることを、おすすめするのです。普通の線香の長さは22センチメートルあり、これが大概44分間でとぼります。そこで完全に数息観ができたとすると、一炷香で330まで数えられることになります。

 

勿論、この数は人々によって違いますが、1 分間の通常呼吸が幾つだから、4 4分で幾つになるという計算で割り出したのでなく、私どもの体験から申すのですから、大体の標準にはなると思います。

 

 

毎日34 0 分の時間としたら、早く起きるとしても大した苦労にもなりますまい。これを日課として続けてゆくと習慣になって、一日休むと何だか気持ちがわるいようになります。そうなればしめたもので、これはと思うような効果が現れ始めます。が、一方、三昧の力を養うという点になると、ここらで一工夫しなければならなくなります。

 

というのは、数を勘定するということが一つの習慣となってしまって、何等の努力もせず、しかも全く別なことを考えながらでも、数則だけは調子よく続けていけるという状態になります。

 

これでは三昧の力を養うわけにはいきませんから、とくに例の三条件を厳格に守ることにします。また時には1 0 0から逆に9 99 8 と数えてみるのも一法です。こんなふうにして滞りなく数息観が実施できる自信がついたら、自分免許で中期に進むのもよいでしょう。

 

中期は1から1 0まで勘定して、再び1に戻るやり方です。この方が楽なように考えられますが、実はそうではないのです。というのは、中期では例の三条件を絶対に守ることになっています。数を間違えることは殆どありますまいが、雑念のはいることを全く許さないということは、難中の難です。

 

いかに微細な念慮でも、数息以外にわたる時は、容赦なく1 に戻してしまいます。蚊が過ぎるのはおろか、よしんば雷が眼前に落ちたとしても、さらに二念を継がずとなると、これは1 00 0人中に1人もないと申しても過言ではありますまい。でもこれ位のことができなくては、数息三昧の力を得たとは決して申せないのです。

 

数息観も中期の錬磨を長く続けていけば、ついにはこの、三昧の力を養いうることは請合いです。

 

 

前に初心の間は、環境に支配されやすいから、暫く閑処を選んで数息観の練習をするようにと申しましたが、今やこの三昧の力を養いえたならば、どんな環境にも左右されるようなことはありません。

 

大燈国師のお歌でしたか、【坐禅せば四条五条の橋の、往き来の人を深山木にして】というのがありますが、数息観も中期の終わりになりますと、こんな心境まで達しえられます。

 

これは数息観を試みている時ばかりには限りません。その三昧の力が発揮されて、たとえば大変喧噪な場所で精密な仕事に従事している場合でも、周囲に関係なく仕事の中に没入することができます。

 

また、いかなる逆境に立っても、「 亦風流ですなア 」 と平然として、日々是れ好日の日送りをすることができ

 

ます。武道にしても芸道にしても、この域まで達することができたなら、まず名人とか達人とか称することができましょう。

 

 

次に後期ですが、これは数息観を2 0年やった3 0年続けたといっても、ただそれだけで誰でも達しうる境涯ではありません。つまり年数にはかかわらず、熱心の度に関係があるのです。

 

前に細くとも長くということを申しましたがそれは前期・中期の話で後期ともなれば短くとも太くと言いたいところです。禅門でも【勇猛の衆生の為には成仏一念にあり、懈怠の衆生の為には涅槃三祇に亘る】と申しております。

 

ぶらぶらとやっていたのでは、幾十年坐っても駄目ですが、勇猛心を奮い起こして坐れば、そんなに長年月を要するわけでもありません。この後期の域に達してこそ、「よくぞ人間に生まれたものである 」 と、人生の本当の意義を味わいうるのですから、せっかく御縁のあった皆様にも、数息観をおやりになるなら、是非ここまで練達して戴きたいと、切に願う次第であります。

 

この域に達すれば、もう呼吸などは意識せず、従って息を数えるのでもなく、そういうことは一切忘れはててしまうのです。忘れるといっても、数息観はしているのですから、ただ放心状態になっているのではありません。

 

一休和尚のお歌に【忘れじと思いしほどは忘れけり、忘れて後は忘れざりけり】というのがありますが、その意味での忘れはてるのです。むずかしいことを言えば、ただ念々において正念に住し、歩々において如是であるということです。

 

こうなると全く禅者の境涯です。禅者の境涯と申しても、ただ室内を一通り畢ったの、公案学を卒業したのという程度では、なかなかどうして夢にだにも窺い知ることのできない境涯で、よほど聖胎長養に骨折らないと達せられる域ではありません。

 

 

禅の話がでましたから、この際一言触れさせていただきたいと思いますが、私が常々修行者に対して、日々少なくとも一炷香を坐れと口ぐせのように申しておりますのは、何も毎日公案の工夫をせよと申しているのではありません。


参禅弁道だけでは、道眼は磨かれても道力が養われません。つまり禅者たるの境涯が円熟しません。禅の修行の目的は、実に念々正念歩々如是の工夫によって、「われ今ここに如是」の境涯に至りうるにあります。


とかく修行者に対して公案の透過ばかりを目標にして、平常数息観に骨折って定力を養うことを怠っている者があるから、とくに申すのであります。

 

元円覚寺派管長の釈宗演老師が“ 数息観は坐禅の最も初歩であるが、又最も終極である” というておられるのを、よく憶念すべきであります。

 

それならば禅の修行などしなくても、数息観ばかりしておればよいではないか、とお考えになる方があったとしたら、それは全く別問題であります。


さっき、公案学では道眼は開くかも知れないが、道力がともなわないということを申しました。数息観では定力は養えるでしょうが、真理眼は開けません。それでは心の支柱がありません。やはり、宇宙の生命・万物の真相・大道の根幹という問題になれば、脚実地に禅の修行をして転迷開悟の実を挙げねばなりません。 

 

大分、話が脇道にそれましたが、再び申します。禅者は一生涯数息観を廃すべきではありません。そして数息観ばかりでは、真の人生の意義はわかりません。どうか禅の修行をなさる人もなさらぬ人も、これだけは意にお留めおき下さい。

 

以上で「数息観のすすめ」を終わります。

 

次に人間禅第三世総裁  磨甎庵劫石老師の講演録「集中ということ」をご紹介します。