集中ということ

集中ということ =道の体得のために=

 座禅というのは決して、知識や思想や信仰ではありません。体による実践です。

 

思想とか信条というものは、頭で考えてできているわけですが、結局、それは言葉でできているものです。ですから実際に、いざ実行するということになりますと、結局、自分の体でやる以外ないことになります

 

 今の若い人たちの多くは、いろいろなものを読んで、頭では知っているのですが、しかし自分の体でそれをやることができない。

 

しかし、道というものは、自分の体で得ていかないことには、実際に何もわからないのです。体で得ていくという場合に、知識や思想とどういう点が違うかといいますと、普通は、思想的な体系というものは論理ですが、それと違っている点は、「気」というものが出て来る。

 

 「気」というのは、元気の気です。これは、ヨーロッパの思想にはみられません。ドイツ語でテンデンツということばがありますが、ちょっと「気」とは違うのです。

 

「お前は、やる気があるか」という、やる気というのは、お前は真剣に、本気で打ちこむかということです。元気の「気」が問題なのです。 

 

 それでは、こういう「気」というのは、一体何だろうと考えてみます。思想的には、立派なものを持っているが、生き生きとしている「気」というものが、はたらいていなければ、その人の精神は死んでいるわけです。 

 

 立派なことを言っても、言葉がわかっても、ただそれだけになってしまう。で、自分の生命が、あるいは身体が、それを受けとめて、それが生き生きとはたらくということのためには、「」というものが生きてそこに現れてくることが必要なのです。

   

 この「」ということがらは、これは理論とちがった、生きた命の先端に出てくる心の働きのことで、非常に多元にわたっているものです。 たとえば、気分がよい・本気・元気・気性がつよい・気前が良い・眠気がさす・病気・強気・弱気とか、更には景気・天気などとしても使われます。

 

 実際の仕事の上でもそうだと思いますが、具体的に理論としてわかっておるが、実際にその場に立って、自分がはたらいていくというのは、人間の「気」ですから、「」というものが充実していなければ本格の仕事はできません。  その場面の変化に対し生き生きと即応しなければ、充実した実践というものは出てこない。

 

 藤田東湖に、「天地正大の気」というのがありますが、そういう気というのは、道の曲想というものを踏まえて、出てくるというものなのです。孟子にも、「天地浩然の気」というものがあります。そういうようなは、いのちが生き生きとしてはたらいいる証拠なのです。

 

  剣道などもそうだろうと思います。気合いがいっていなければ、生きてきません。そういう一点に集中した「気」というもの、そういうものが、ヨーロッパの思想、文化というものにはないのですが、人間の生活には極めて重要な意味をもっています。  

 

座禅というものは、一点に心を集中する修行です。

 一つのことに集中していくことによって、本来の「」、元気が甦ってくるのです。

 

もちろん、元気が甦るということの裏には非常に深い次元の、そういう存在の根元的生命力というようなもの、把握というものが正しくされるということもありますけれども、しかしそれは「」として現われるということでなければ、具体的な個々の生活のなかで生きた働き、出来ないわけです。

 

 それは、ただ絵にかいた  ぼたもち  のように、頭でボンヤリと考えていても、心は甦ってこない。

 

そういう点で、禅だけではありませんけれども、座禅の修行というものは、「」というものを本来的なものに甦らせる力をもっています。そういう、働きがあるのです。

 

  そして、禅の場合、そういう集中することを、呼吸を整えるということを通じて行います。 

 

 日常生活の中で、感情が乱れを起こしたりすると、呼吸が乱れます。呼吸が正常であるということは、その人の精神状態が、正常な証拠です。

 

 心が乱れた時には、必ず呼吸が乱れてきます。だから禅では呼吸というものを非常に大事にしています。呼吸を正すということを、座禅しながら一貫して行っていきますと、水が澄んだように、心も清くなっていきます。 

 

 水面がざわざわ  ざわざわしていますと、水面から底が見えない。呼吸を一点に集中すると、心の波立ちが静かになって澄んできて水の底にあるものが見えるように、心の中に在る本来のはたらきが甦ってくる。

 

 それを玉にたとえまして、心の中に在る玉の光が現れてくるといいます。しかし、心の波がいらいらしたり、ガタガタしたり、流れが非常に濁っておったりすると、心にどんな立派な玉があっても、その光は現れてこない。

 

 心の光るものは、仏性ですが、その光が出てくるためには、心の働きを正常にして澄ますことが肝要なのです。呼吸を整え、心が集中して平静になるとその底に仏性の本来のはたらきの「正気」というものが、甦ってきて、その光をだしてくるのです。

 

 それでは、何故、そのために座禅をして、足を組んで、両手を前に重ねてやるのか、といいますと、理論的なことはよくわからないのですが、長い間、何千年という伝統の中で多くの人々が、経験を積んで行ってきた人間形成の方法としてそれが一番よい、実際にやってみて、非常にいいことがわかる。

 

 ただものを考えるならば、寝転んで考えたって、あるいは歩きながら考えたっていいのですけれども、やっぱり、ああいうふうに姿勢を正し、足を組み、手を結んで、心を一点に集中するということが、どうしても身体的な条件として、必要なのです。

 

身体をそのように正しくすることによって、心の本当のはたらきが引き出されてくるのです。心身一如ということです。

 

 剣道やる人も、あるいは弓道や茶道や書道を行う場合も、やはり本格的にやる人というのは、座禅することによって、心を正したのです。

 

 座禅というのは、ですから一つの宗派の宗教ではなくて、一つの人間形成の方法だと、私は考えています。

  心を正す方法であり、クリスチャンも、仏教も、お念仏も真言宗の人も、企業マンも、政治家も、芸術家も、本物になるためには、これを行じていくことが必要なのです。

註:この文章は、人間禅第3世総裁磨甎庵劫石老師の講演録から転載したものです。

 

次に例会で学習する一行物の一つを紹介します

〘一行物 事例〙