月例会で学習する、「禅語の茶掛け・一行物」事例

 

 

 開巻の劈頭にちなんで、「一」の一字を選んだ。この「一」はむろん数字ではあるが、単なる数字ではない。存在する一切のものがそこから生まれ、又そこに帰るところの唯一絶対なものを意味している。万物の始原であり、かつ究極である宇宙の大生命を意味している。

 

 『老子道徳経』に「道、一を生じ、二、三を生じ、三、万物を生ず」とあり、また「万法一に帰す」といわれている、その一である。

同書にまた、

 

 

 物有り、混成し、天地に先だって生ず。

 

 寂たり(りょう)たり、独立して(かわ)らず、周行して(あやう)からず、

 

 以って天下の(もと)たるべし。

 

 吾れその名を知らず。

 

 之に(あざな)して(どう)といい、強いて之が名をなして大という。

 

 

という有名な一章がある。

 

 老子が「天地未だ分かれざる以前に生じ、爾来(じらい)脈々と活動し、万物を生成し発育せしめているものではあるが、何とも名の付けようのないもの」といい、仮に「道」「大」と名付けたもの、それがここにいうところの一である。宋代の儒者・(しゅう)濂渓(れんけい)が、その「太極図説」において「太極にして無極」と称したのも、この一のことである

 

 

 仏教ではこの宇宙の大生命を意味する一を「如」とよび、この如が人間に宿ったものを仏性と名づけ、特に禅ではこれを「父母未生以前における本来の面目」とか「主人公」とか或いは「這箇(しゃこ)」(こやつの意)などと称している。それらは名称は異なるが、その実体は同じものである。

 

 そして『老子道徳経』にはまた「天は一を得て以って清く、地は一を得て以って(やす)く、…万物は一を得て以って生じ、侯王は一を得て以って天下の正(政)を為す」とあるが、確かにその通りで、この一を得、これに基づかぬものは本物ではない。

 

 近頃の政治や教育が乱れているのは、その指導者がこの一を得ておらぬからである。そしてこれを拡大して「茶人はこの一を得て以って真の茶人となり、茶の湯はこの一を得て以って茶道となる」といって、決して過言ではないであろう。

 


 

明珠在掌(めいじゅ たなごころに あり)

 

『碧巌集』の第九十七則「金剛経軽賤」の則に加えた雪竇重顕の(じゅ)の冒頭に「明珠掌に在り、功ある者は賞す。胡漢来たらず、全く伎倆なし」という二句がある。この場合の「明珠」は、頌の意味からみて、「明鏡、台に当たり当下に妍醜(けんしゅう)を分つ」という句の明鏡と同じ意味である。したがってこの場合の「明珠掌に在り」は、あたかも照魔(しょうま)(きょう)にも似た明珠をチャンと備えていて、わが前に来るものをあるがままに正しくうつしとり、その正邪・曲直・方円・美醜を判定していささかの歪みもない、という意味である。この句をこのように解釈して、もちろん結構である。

 

 

 

 

しかし、仏教を外護し仏心天子とも称された梁の武帝の帰依をうけ、その顧問の任にあった僧、宝誌が「身内(しんない)に自ら明珠り」と説いているように、「明珠掌に在り」は必ずしも雪竇の専売で無い。だから一行物としてある場合には、雪竇の頌をはなれて次のように解釈した方がおもしろいと思う。

 

 

 

万人が男女・老幼・貴賤・貧富・賢愚・美醜、ないし職業・国籍・人種の別にかかわりなく、仏と寸分たがわぬ本心本性すなわち仏性を、生まれながら円満かつ平等に(そな)えているとは、大乗仏教の根本の教理である。そしてこの仏性を宿しているが故に人格は尊厳なのであり、この仏性にもまして貴い宝物はあるまい。この貴重な仏性が万人に本来円満かつ平等にそなわっていることを、仏性を明珠にたとえて表現したのが、この「明珠、掌に在り」の一句なのであり、後出の「寳剱、手裏に在り」とほぼ同じ意味である。

 

 

 

ところで、万人は本来仏性をそなえている、その意味で「衆生本来仏なり」が真理ならば、今さら修行などして成仏をはかる必要がないのではないか、という意見がきっと出るであろう。しかし、いかに貴い明珠を持っていたにしても、それを煩悩妄想の泥中に埋没させ、その在り場所も判らないという有様では宝の持ち腐れで、無いも同然である。すばらしい無価(その価値が無限大で、価格のつけようがないという意味)の珠玉が自分にある、と知識で知っていたとて、実物をつかんでいなければ空手形にすぎない。

 

 

 

永平道眼が、この仏性の明珠は「人々(にんにん)の分上ゆたかにそなはれりといえども、いまだ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」と戒めているように、どうしても修行に骨折って、これをしっかり証得して我がものにすることが必要である。そしてこの明珠は本来、自己の五尺の肉体を離れずに在るのであるから、修行しさえすれば、万人が万人必ずこれを証得することができるのは、絶対に補償する。

 

 

 修行してこの明珠を発見し証得し、さらに修行を継続して長年の埋没によって生じた垢や錆を取り除き、磨きに磨いていけば、この明珠はついに如意宝珠となるのである。この如意宝珠を掌中にして、如意自在に生きてこそ、生き甲斐がある人生というものである。この無価の明珠、磨きぬけば如意宝珠となる明珠を本来持っていながら、それを持っているとも知らず、また知っておってもそれを煩悩妄想の泥中に埋没させて探そうともせず、いたずらに不如意だ、不自由だとかこっているのは、それこそ愚痴の最たるものというべきであろう。

 

 

 

 

侘びとは本来、物質的に貧しくて万事思うにまかせないこと、すなわち不如意という意味である。ところでその物質的な不如意を転じて、精神的な豊かさと如意自在の境地を開くのが、茶道の侘びの本義である。この茶道の侘びの本義に徹氏、これを日常の上に実践するためにも、まず自家屋裡の仏性の明珠を発見し証得し、さらに鍛錬に鍛錬を重ねて、これを如意宝珠にしあげることである。お互いにそこを目ざして努力したいものである。

 

 

 

 

 

なお最後に、この句に関連して

 

〇貪看天上月失却掌中珠(天上の月を(むさぼ)り看て掌中の珠を失脚す)

 

という句を紹介しておこう、天上の月に憧れ、これにみとれてウカウカし、いつの間にか掌中の明珠を落としてしまったとしたら、これほど愚かなこともなかろう。ところが、この愚功をあえてしている人の多いのが、世間の実情ではなかろうか。ここにいう「天上の月」いろいろなものを当てはめてみて、この句を味わい、「自分が愚かなことをやっていないか」反省したいものである。